小林多喜二と蔵原惟人 トップ 前へ ホーム 次へ
作家と評論家の問題
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日本のプロレタリア文学を代表する蔵原惟人と小林多喜二を取り上げて、作家と評論家の問題を考えるというわけですが、最初に考えなければならないのは、この二人はそれぞれ単に作家だとか評論家だとかいう枠でくくって考えることができるだろうかということであります。
今度新日本出版社から出たプロレタリア文学評論集の蔵原惟人集は非常にいい編集で、その解説とあいまって、プロレタリア文学の理論家として登場する以前からの歩みがよく分かります。
私などは戦後になってはじめて蔵原惟人の評論を読んでびっくりした世代であります。文学の階級性などということは考えたこともありませんでした。戦争の時代には発禁だった『 芸術論』が戦後になって復刻されましたが、当時高校生(旧制)だった私は強烈な衝撃を受け、新しい世界に導かれました。はじめて出会うひとつひとつの言葉がすべて新鮮でした。はじめて出会う言葉であり、難解な言葉であるのに、その理論の鋭さと明確さに圧倒されて、無闇に線を引いて夢中になって読みました。
それは私のそれまでの文学に対する考え方を根底から覆し、私たちが直面していた戦争直後の諸問題に、実に明確な指針が与えられるような気がしました。こんな人がいて、こんな理論があったということが不思議にさえ思われました。それはわずか十年とちょっとばかり前に日本で書かれた文章なのに、何か遠い世界から突然持ち込まれ神話めいたたもののような気がして、蔵原という人は何かこの世の人でないように思われました。
この最初の印象はその後ながく残って、繰り返し読み、限りなく教えられ、大変な尊敬を抱きながら、蔵原という人に対して、現実に生きている生身の人間しての親しみを感じることは出来ませんでした。しかし考えて見れば、蔵原が生まれたのは一九〇二(明治三五)年、一九四五年にはまだ四十才を過ぎたばかりの若さだったわけです。そして今度の評論集の解説にも紹介されていますが、中学時代、外語時代には詩を書く繊細な文学少年だったのです。私自身六十何歳という年齢になって振り返って見れば、プロレタリア文学運動というものも、真面目でやさしい青年達が歴史の荒波に押し流されまいとして、必死にもがき、流れに抗して懸命に戦った戦いであったと思われて来るのです。
プロレタリア文学の時代にはまだ物心ついておらず、戦争の時代にはまったくそれから絶縁されていて、戦後になってにわかに目を見開かされ、それが怒涛のように押し寄せるのに圧倒された経験を持つ私たちは、どうしてもそれを神話化しがちでした。今思えば、彼らは人間として、文学者として目覚めた夢多き青年時代に戦争と弾圧の苛酷な現実に直面した不幸な世代であったと言えるでしょう。彼らは我が身を犠牲にして、この苛酷な現実と戦うことよってしか、人間であり文学者であることができなかったのです。しかし、彼らは困難に屈せず、真っ向から時代に立ち向かって、戦争の時代の惨めな日本の歴史の中で、世界に誇ることの出来る立派な仕事をしたのです。
敗戦直後には、戦争を支持した人や、転向した人が大部分でした。その戦争の傷痕のために、プロレタリア文学の時代は一方で神話化され、また一方に、転向者のコンプレックスや怨恨があって、どうしても歪んでとらえられることを免れなかったのです。その影響は今日にまで及んでいると思われますが、既に戦後半世紀近くもの年月がたっているわけですから、もっと広い歴史の中で、平静にとらえ直し、これからの日本の青年達に、戦争と反動の嵐に抗して戦った日本の誇るべき遺産として、その成果を伝える仕事をしておかなければならないと思います。
その意味で、先のプロレタリア文学集に収められた小林多喜二集もそうでしたが、今度の蔵原惟人集も、蔵原の仕事をその初期からたどることが出来るようになっているのはありがたいと思います。彼らもまた、決して初めからプロレタリア文学者であり、不屈の闘士だったわけではないのです。
詩を書く少年だった蔵原は、ロシア文学を深く愛し、府立一中から東京外語のロシア語科に進みます。外語卒業後、一九二五年から二六年にかけて、レーニンの死後一年、革命後十年に満たぬ、混乱し激動する、過渡期のロシアに行き、二十四才で帰国して、プロレタリア文学の代表的な評論家になりました。そして一九三〇年代初頭には早くも検挙投獄されて、執筆が不可能になるのですから、その評論家としての活動の期間は、二十才代のごく短い期間だったわけです。この若さで、この短期間に、これだけの理論的な仕事をしたということはまさに驚くべきことですが、新しく勃興したプロレタリア文学運動がそれを要求し、その要求に答えるためにこれらの仕事が行われたのでした。
蔵原の理論は蔵原の理論であって、それはあくまでも個人の仕事ではありますが、しかしまたそれを生んだのは時代であり、プロレタリア文学運動の現実の必要だったと思うのです。詩を書く少年だった蔵原は、また『渡辺崋山』をはじめ、多数の研究的な評論やエッセイを書いています。理論家蔵原は同時にこのような多面的な文学者であり、また、人間の解放と平和のために徹底して戦う戦士だったわけです。この人間としての蔵原が文学者であり理論家である蔵原の根底に厳然として生きています。蔵原においては政治と文学は不可分で、単に批評家とか理論家とかいう言葉で言いあらわすことができない存在だったのです。
小林多喜二も同様で、人間が人間として生きることを許さない現実に対して、人間として生き、人間として戦うということを離れて彼らの文学はなかったのです。このきわめて当たり前のことを今さらのように強調するのは、人間的ということと政治を切り離し、政治と文学、現実と文学、理論と文学を切り離し、これらを相互に対立させて、文学がその基盤と内容を失い、観念的になり、痩せ衰えたものになる傾向がますます強まっていると思うからです。これは蔵原の「プロレタリアレアリズムの道」の言葉を使えば、イデアリズムの傾向であり、没落期の滅びゆく階級の芸術の特徴だということになります。たしかに、現代は滅亡と終末の意識が支配的になっている時代であると思います。この時代の意識を代表する文学が現実に対する能動性を失い、非現実的になり、観念的になり、芸術至上主義の袋小路に落ち込んで行くのは当然だと思います。
しかし、ひとつの時代の終わりはもうひとつの新しい時代の始まりであり、没落する階級があれば、勃興する階級があるわけです。プロレタリア文学が勃興したのは、このようなひとつの時代の終わりと、新しい時代の始まりが強く自覚された時代でした。その背景にはロシア革命があり、長い不況と世界的な大恐慌がありました。
ロシア革命は破滅に直面した世界のプロレタリアを鼓舞し、人間的自覚を呼び起こしました。プロレタリアは強烈に自己を主張し始め、革命的な解放運動の波が日本にも押し寄せて来ました。新しい階級的自覚と自己主張は、これまで普遍的であるとされた思想や文学をブルジョア的、階級的なものとして否定し、これと対立するプロレタリアの思想と文学を主張したのです。もはや、自己を絶対化して、自己の実感を強調することが人間的であると考えることはできなくなりました。一九一〇年代のヒューマニズムを代表する志賀直哉が書けなくなり、芥川龍之介が自殺したのは、このような時代の転換を端的に示す事件でした。
かつて石川啄木は「私が文学に求めるものは批評である」( 「時代閉塞の現状」 )と主張しましたが、批評する主体としての自己が批評される時代になったのです。自己の意識を越えて発展する現実を前にして、もはや自己の実感を絶対化し、それに固執し続けることはできませんでした。むしろ、そのような自己の確かさが信じられず、自己の存在が激しく揺れ動く現実から問われるようになったのがこの時代でした。人間とは何か、人間はいかに生きるべきかということが根底から問われ、激動する世界の中で、自己の位置と生存の意味が厳しく問われたのです。この時代において思想と文学は不可分でした。激動する日本の現実と自己に対する批評、これまでの文学に対する批評がプロレタリア文学を生んだのです。
中流上層の恵まれた家庭に何不自由なく育ち、人間的な知性と感性に豊かに恵まれて、深く文学を愛した蔵原惟人は、広い教養を身につけ、日本を代表する優れた知識人として、もっとも鮮烈に時代の苦悩を感じ、これを自分自身の苦悩とする所から、自己の思想と文学を出発させました。
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蔵原は書斎に閉じこもって読書と思索に耽るばかりの知識人ではありませんでした。身を挺して現実のただ中におもむき、矛盾と混乱の尖端に身を置いて、現実そのものから自己の思想と文学を生み出そうとしました。革命後十年に満たず、レーニンの死後一年、激動そのもののソ連に行き、混乱する社会のただ中で新しい思想と文学の方向をつかみ取ろうとした蔵原は、帰国後は弾圧に抗して戦う日本の解放運動に参加し、新しい理論家として、プロレタリア文学運動の先頭に立って戦いました。
蔵原の評論は漢字が多く、理屈っぽくて、大変難解なように見えますが、しかし、それはこのような世界と日本の現実と深く結びつき、現代に生きる人間の苦悩を代表するものだったから、小林多喜二を始め、当時の作家たちに強烈な影響を与えることができたのです。蔵原によって日本のプロレタリア文学運動は明確な理論的基礎が確立され、新しい発展段階を迎えました。現代社会の矛盾に満ちた現実は、プロレタリア階級の前衛の観点に立って始めて、その全体的な相貌と構造が明らかになり、真実の姿をリアルに描き出すことができます。蔵原は日本の近代文学の全体的展望に立ち、その矛盾を追究して、プロレタリアートの前衛の観点に立つプロレタリアリアリズムの確立を主張しました。蔵原はそれを限定されたプロレタリア文学だけの問題としてではなく、現代文学全体の問題として提起したのです。
志賀直哉の強い影響を受け、新しい文学を模索していた小林多喜二が、蔵原の「プロレタリア・レアリズムの道」に鼓舞されて「一九二八年三月十五日」を書き、やがてプロレタリア文学を代表する作家に成長して行ったことはよく知られています。
多喜二は蔵原とは反対に、秋田の貧農の子として生まれ、夜逃げする一家とともに北海道に移住して、伯父の援助で小樽高商(現在の小樽商大)を卒業し、拓殖銀行に就職したのでした。多喜二は「赤貧洗うが如し」という貧農の子としての生い立ちと、銀行員としての生活から生まれる小市民的インテリゲンチュアの意識との矛盾に苦しみました。多喜二の初期の文学は、抜け道のないこの矛盾と苦悩を執拗に追求し続ける所に成立しました。大変な苦労の末、やっと手に入れた現在の小市民的な幸福を失いたくない。特に苦労に苦労を重ねた母のことを思うと、その思いはいっそう強められました。しかし、自分がその中で生い育った労働者農民、さらに安定した仕事もなくどん底の暮らしをしている多数の人々の悲惨な現実は、現在の小市民的な生活に安住することを許さない。多喜二はその苦悩を「『世界意識』 という神聖な病気」と呼んでいます。
このような多喜二を揺り動かしたのは、小樽の港湾労働者の争議であり、磯野農場の小作争議でした。多喜二は決して最初から鋼鉄のようなプロレタリア作家だったわけではありません。多喜二は銀行員の立場を利用して、これらの運動に情報を提供する仕事をし、一九二八年二月の我が国最初の普通選挙では、人目につかぬ形で応援活動をしました。人手が足りずに、こっそりと応援演説をしたこともありました。この時のことは「東倶知安行」に描かれていますが、始めて直接に語りかけて味わった民衆との一体感は、これまで感じたことのない感動でした。
北海道の天地をも揺り動かし始めた労働者農民の運動が、多喜二の思想と文学を揺り動かし、多喜二は少しずつ運動に近づいて行きました。この時、三・一五の大弾圧が襲いかかり、一緒に仕事をした仲間たちが次々に検挙され、小樽の運動は一時的に根底から壊滅させられました。当時の日記を見ると、多喜二が弾圧から受けた衝撃は大きく、前途に絶望して、毎夜遅くまで飲み歩く日々を送ったようです。しかし、少しずつ拷問の烈しさと、これに屈せぬ同志たちの様子が伝えられて来ました。そして、この弾圧の嵐の中で、前芸(前衛芸術家同盟)とプロ芸(日本プロレタリア芸術連盟)の合同が実現し、ナップが成立して、プロレタリア文学運動は新しい段階を迎えたのでした。
多喜二は弾圧の衝撃が大きかっただけ、この弾圧に屈せぬ獄中の同志たちの不屈の戦いを伝え聞いた時の感動は大きかったと言います。そしてこの弾圧の嵐の中で、かえってこの弾圧をバネにして文芸戦線の統一を実現し、新しい段階を切り開いて行ったプロレタリア文学運動の発展に励まされました。多喜二は自分自身を励まして、人々に隠蔽されているこの苛酷な弾圧の実態を、現代の階級闘争の最も重大な、最も先端的な出来事として描き出そうとしました。
「一九二八年三月十五日」を書くことは多喜二にとって怯懦な自分自身と戦うことでした。単に自己の実感に依拠するばかりでなく、自己の実感を階級闘争の前衛の観点から照らし出そうとしました。この作品は決して鋼鉄のような不屈の戦士ばかりが描かれているのではありません。渡や工藤を始め多様な労働者の姿が描かれ、竜吉や佐多のようなインテリゲンチアも描かれていますが、注目すべきことは、弾圧に恐れをなして組合なんてこりごりだと言う木村のような労働者や、空元気を出して無闇に警官に突っ掛かって行く小児病的な労働者など、否定的な労働者の形象を描いていることです。また、夫はだまされていると思うような小市民的な竜吉の妻のお恵や、警官の愚痴なども描いています。特に留置場の生活にすっかり打ちのめされた若い銀行員の佐多は、多喜二自身の分身ともいうべき存在でした。多喜二は自己の内部に潜む弱点をえぐり出し、佐多という人物を描き出すことによって、自分自身を乗り越えようとしました。
このように多様な群像を描き、特に自分自身のものでもある運動の内部の弱点を描き出すことは、単に自己の実感に依拠するだけの方法では不可能でした。そこには自分自身を乗り越え、運動の全体を見渡し、時代と社会の全体を見渡し、弱点を持つ者も含めて大きな戦線をつくり出して行くプロレタリア前衛の観点が必要でした。プロレタリアの前衛は前衛だけで戦うことはできないので、プロレタリア前衛の観点は、雑多な要素を含み、多くの弱点を持つプロレタリア大衆を結合し、階級闘争に組織する統一の観点と不可分でした。
蔵原惟人の「プロレタリアレアリズムへの道」は、一九二八年五月『戦旗』創刊号に、新しい文学運動の方向を示すものとして発表されました。一九二八年一月の『前衛』創刊号に発表された「無産階級芸術運動の新段階│ 芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦
線へ│ 」をはじめ、一貫してプロレタリア文学運動の統一を求め、そのための理論活動を活発に展開して来た蔵原が、三・一五の大弾圧の打撃から立ち上がり、さらに大きな文芸戦線の統一と飛躍的発展を実現しようとして書いたのです。
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蔵原は三・一五事件の直前に発行された『文芸春秋』一九二八年三月号に「左翼文芸家の総連合へ」を発表しています。「日本左翼文芸家総連合」というのは、蔵原が主唱者になって、前芸とプロ芸だけでなく、文戦派も含めた左翼芸術家の大連合を作り出そうとしたのです。結局文戦派は離脱してこの運動は実を結ばず、一九二八年五月に日本左翼文芸家総連合編と銘うって刊行された作品集『戦争ニ対スル戦争 アンチ・ミリタリズム小説集 』がこの努力の今日に残る唯一の成果となりました。しかし、『戦争ニ対ス戦争』には、金子洋文、小堀甚二、黒島伝治、前田河広一郎、里村欣三など、文戦派の作家たちも多数参加していて、切迫する戦争の危険に対して広範な統一戦線をつくって戦おうとした日本の文学者の戦いを記念するものになっています。
蔵原はこの論文で「今こそ我々左翼芸術家が一致共同して、ブルジョア文学との果敢な闘争を広範に展開し、また一方反帝国主義戦争の運動、検閲制度改正のための運動、解放運動犠牲者救援のための運動、これらに積極的に参加することの必要を我々から要求している。最近におけるわが国のプロレタリア芸術運動の戦線統一の問題は実にこの現実的必要から生まれて来たのである」と述べていますが、特に注目すべきことは、プロレタリア文学確立の観点からも「総連合」の必要を強調したことです。
「現在わが国におけるプロレタリア文学は、名はプロレタリア文学と呼ばれながら、実は多くの場合において、あるいは革命的インテリゲンチャ的、自然発生的労働者的、あるいはまた小ブルジョア的革命的文学であって、真のプロレタリア的情操とプロレタリア的感覚とプロレタリア前衛の意識等を兼ね備えたすぐれた文学は未だわが国に存在しない」と蔵原は述べ、この前提に立って所属する文学団体を異にするプロレタリア文学者の協力連合を求めました。今すでにどこかに「これこそは真のプロレタリア文学であると言いうるごとき」「プロレタリア大衆に真に訴えるような文学」が実現されているのなら、その旗の下に結集すればいいということになるのでしょうが、今はそんなものがあるわけではなく、これから新しくつくり出していかなければなりません。
「真のプロレタリア文学は、決して一つの文芸団体が他の文芸団体の作品を簡単に否定することによっては生まれてこない」と蔵原は強調しています。「現存せる文芸団体に属する作家群の間には、それぞれきたるべき真のプロレタリア文学の構成要素となるところの幾多の特徴が存している」のです。「したがって異なった集団に属するわがプロレタリア作家たちは、その自惚うぬぼれを捨てて、互いに優れたる要素を摂取し合うことによって初めて真のプロレタリア作家たりうるであろう」と蔵原は述べました。
「 一九二八年一月のプロレタリア文学」(『 前衛』一九二八年二月号)でも、「我々は現在において、イデオロギー的にまた芸術的に見て、これこそは真実のプロレタリア文学であると言いうるような完成された作品を有していない」と述べ、それ故、たとえ完成されていなくても、「何等かの萌芽的要素」を発見したら喜ばずにはいられないと言って、鶴田知也の「海鳴り」や黒島伝治の「農夫の鞭」など、当時文戦派に属していた作家たちの作品のすぐれた点を積極的に評価しました。
「海鳴り」については、「現在のプロレタリア文学の一つの致命的欠陥である抽象的・概念的傾向から解放されて、生きた現実と生きた人間を書いている」点を積極的に評価し、「ただ浮浪人のみでなく、さらに闘争しつつある現代の都市プロレタリア、農民をこれと同じように描き出すことが出来るようになった時、初めて彼は真に大なるプロレタリア作家となりうるであろう」と述べました。黒島の「農夫の鞭」についても、この作家には「 長編小説家としての素質があるのではないかと思う」と言い、「闘争しつつある現代日本の農村の客観的な叙事詩的展開を、その長編において示してくれたらと思う」と述べています。
評論家が自己の理論、理想とする文学像によって作品を批評することは大切ですが、ひたすらそれに固執して、現実の作品に対して観念的、高踏的なお説教をするばかりであるならば、作家の創作活動の現実と懸け離れたものになってしまいます。欠陥を指摘すると同時に、たとえ「萌芽的」であり、未熟であっても、作品に秘められた様々な可能性を見出し、積極的に評価して行く批評が、作家を励まし、未だ実現されていない真実のプロレタリア文学の創造に向かって、具体的に一歩前進させることになるのだと思います。
「何等具象的な芸術的な解決なくして、ただ単なる論理的結論のみを付け加えようとする傾向は現代のわが国プロレタリア文学に共通の欠陥である」と蔵原は指摘し、その克服を求めましたが、それはまたプロレタリア文学の批評における欠陥でもあったのです。蔵原は評論家としてこの欠陥を克服しようとして、どこまでも具体的に、現実にある未熟な作品に「真実のプロレタリア文学」の可能性を求める批評活動を展開しました。こうして蔵原は、政治的、文学的立場を異にする文戦派の作家たちをも積極的に評価し、文学運動の統一と「真実のプロレタリア文学」実現のために奮闘したのでした。
『前衛』に発表された新人橋本英吉の「棺と赤旗」については、「資本家と労働者と、ストライキと警察の関係を概念的ではなく、芸術的に解決することを忘れなかった」点を高く評価し、作中に描かれた数多くの興味ある「エピソードのことごとくを、ただ単なる偶然的エピソードとして終わらせずに、それを全体としての作の主題に統一し得た作者の才能は敬服に値する」と述べています。これに反して、村山知義の戯曲「砂漠で」については「あまりに理知的に過ぎる」と言い、「理知的なものは、人を満足せしめはするが、それをアジテートすることが少ない。それが現代の被圧迫大衆を対象とする場合においてはなおさらである」と述べています。
山田清三郎についても「最近大衆から離れてゆく危険を示してきた」ことを批判しています。山田は「現代における被圧迫大衆の中から生まれてきた」作家で、初期の作品 「幽霊読者」や「小さい田舎者」には、この「大衆の声」が響いていて、それが我々を打っていた。ところが最近の彼は「彼自身がその中から出てきた大衆を描くことをやめて、彼がただ概念的にのみ理解しているいわゆる前衛分子の模写に没頭してしまったよう」になり、作品が概念的抽象的になって、「大衆に訴えることをやめてしまった」と言うのです。
これらの作品に対する具体的な批評を通して、蔵原は「真実のプロレタリア文学」の可能性を探り求めたのでした。この評論の末尾においても「これこそ真実にプロレタリア的であると言いうる文学は、まだわが国には生まれていない」と繰り返し、「しかし、それはやがて生まれるだろう。だが、そのために必要なのは一つの傾向をもって他の傾向を追放することではなくして、反対にこれらの諸傾向が互いに自由に競争することによって、より一層高い段階に到達することでなければならない」と述べています。
この蔵原の見地は、ロシアからロシアの文学状況を紹介する記事を書いて送った出発の当初から一貫したものでした。蔵原はレーニンの死後間もなく、まだスターリン主義が支配する以前のロシアに学び、そこから出発したわけですが、この時代のロシアはさまざまな流派が併存し、新しい文学を求めて自由に競争する活気に満ちた時代で、蔵原の評論家としての活動はこのロシアの文学状況を日本に伝えることから始まりました。『新潮』や『都新聞』に発表されたロシアからの通信は、ロシアにおけるフォルマリズムや未来派、構成派などの近代派の動向に深い関心を示し、これらをくぐり抜けて、再びプーシキン、ゴーゴリ、ゴンチャロフ、トルストイ、ドストエフスキーなどの平明な言葉や構成に学び、ロシアの社会の矛盾と苦悩を浮き彫りにする新しいリアリズムの潮流が次第に強まって来たという動向を伝えています。
帰国後の最初の論文が「現代日本文学と無産階級」ですが、この論文で階級の問題を中軸に据えて、これまでの日本の近代文学を論じています。この論文で特に注目すべきことは、ブルジョアとプロレタリアの間にある小ブルジョアというものに強い関心を寄せ、日本の近代文学を小ブルジョアの文学として、その複雑さと多様性において論じ、島崎藤村の『破戒』の積極性を強調していることです。小ブルジョアの文学はブルジョアの方に行くものとプロレタリアの方に行くものとに分解します。蔵原はこの小ブルジョアの革命性と保守性・反動性を解明したわけですが、日本国民の小ブルジョア化が進行し、中流意識が煽りたてられている現在、小ブルジョアの問題は今日ますます重要になっていると思います。
この小ブルジョアの問題と関連して、蔵原はアナーキズムの文芸論に対する批判を強力に展開しています。個人の絶対的な自由を主張して、政治を否定するアナーキズムに対して、絶対の自由などかつて存在したことのない観念で、この観念にすがりついて現実の問題を直視しないイデアリズムは、没落する階級の夢想に過ぎないと批判したのです。絶対の自由よりも、今解決しなければならない問題、現に抑圧されている無産階級の具体的な解放の問題があり、芸術もこの無産階級の解放を第一の課題とするというのです。無産階級にとっては、芸術の価値は無産階級の解放にいかに有効かということと切り離して考えることはできないというのです。
この具体的実践的な有用性の観点から、蔵原は芸術の芸術性を問題にしました。無産階級の芸術はなによりもまず大衆に読まれることが必要であり、読者の心の琴線に触れるものでなければなりません。芸術的に高くなければ、どうして大衆の心に触れることが出来るのか。芸術の有用性と芸術性を統一的に把握するところに無産階級の立場があり、この両者を切り離し、ひたすら現実から切り離された芸術的価値の幻想にすがりついて自己満足に耽るのが没落する階級の理論なのです。
しかし一方で蔵原は、芸術の独自の役割を否定し、すべてを政治に還元する「観念的左翼」の政治主義的傾向に反対し、階級闘争における芸術の役割を強調しました。これらをめぐってプロレタリア文学運動内部で激しい論争があり、運動方針の違いや理論の対立から一九二七年にはプロレタリア芸術連盟が分裂し、さらに労農芸術家連盟から、前衛芸術家同盟が分裂するというような事態が発生したのです。このような分裂を克服し、全左翼芸術家の統一を実現しようとする努力の先頭に立ったのが蔵原惟人であり、その画期的なプロレタリア文学理論は、この努力の中で発展させられたのでした。
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蔵原の理論は理論のための理論でなく、具体的な運動の現実と結びつき、その必要に答えるものでした。具体的な現実を離れ、純粋に理論上の問題として自己の理論に固執し続けるならば、対立は対立を呼び不毛な論争と分裂騒ぎが続きます。蔵原は自己を絶対化する自惚れを厳しく批判し、対立する諸団体が相互に批判し合うと同時に、それぞれの差異を認めて、相互に学び合い、高め合うことを求めました。団体を異にし、政治的、思想的、理論的立場を異にしても、無産階級の解放という共通の課題があり、さらに文学には文学固有の共通の問題があります。蔵原は無産階級の解放という観点から、具体的な現実の問題を取り上げ、それぞれの作品の積極的な要素と欠陥を明らかにし、一段高い作品の可能性を具体的に探ったのです。
蔵原はプロレタリア芸術は何よりもまず、プロレタリア大衆に読まれ、理解され、愛されなければならないと主張し、理論によって現実を飛び越え、現実を理論に従属させる傾向を厳しく批判しました。「マルクス主義文芸批評の基準」の蔵原は、「芸術的作品が真に大衆に影響を及ぼすためには、それが無味乾燥なる論理的命題によってではなくして、 生き生きとした芸術的形象によって成立していなければならない」と述べ、「芸術は抽象化されたる概念の助けをかりてではなくして、 生き生きとした現実の助けをかりて大衆に訴える」「もしも善人とか悪人とかいったふうに抽象化されたる概念に従って人物を描いていったならば・・・・・・人に不自然な感を抱かせるのみであって、 何人をも感動せしめることは出来ない」と強調しています。
前掲の『前衛』創刊号の論文「無産階級芸術運動の新段階 芸術の大衆化と全左翼芸術家の統一戦線線へ 」の蔵原は、「我々の芸術を大衆に押し売りする権利を有しない。 大衆もまた我々の芸術を読み、また見る義務はない」と述べ、我々の作品が「大衆に理解され、大衆に愛される」ためには、「まずそこに生きた大衆の姿が描かれていなければならない」と述べています。そして、「我々が大衆と言う時、それは決して抽象的概念として言われているのではない」ことを強調し、「今までのわが無産階級の諸作品」には「生きた大衆のかわりに、しばしばいわゆる『現段階』の一般的規定からの論理的結論としての大衆 かくあるべきの大衆が描かれている」と批判しました。「しかもこの態度は、より左翼的であると自負している芸術家においてますます甚だしいように見受けられる」と言うのです。
生きた大衆を描くためには「あらゆる自然発生的、労働者的、農民的、小市民的芸術形象を拒否してはならない」のであり、「現在における我々の芸術はその主題において、その表現において、またその形式においてあくまでも多角的でなければならない」と蔵原は主張し、ブハーリンの言葉を引用しています。
ブハーリンは 「一般にコミュニストといい、労働者といい、彼等は決して二つの足をもった抽象ではない、彼等は血と肉とをもった人間であるのだ」「過渡期の生活は極めて豊富であり、複雑である。それは社会的、生活的、個人的、あらゆる矛盾と葛藤とによって満たされており、そこにはドラマのためにも、悲劇のためにも、喜劇のためにも、抒情詩のためにも、また一般的世界観、科学、哲学等 人類の『 精神文化』 の名を得たあらゆるものの広範なる興味の展開のためにも、その場所は見出されるのである」「わが青年を馬の食うような何時も同じ食糧で養ってはいけない・・・・・・変化ある問題をより多く与えよ! その多彩なる多角なるそして怪奇に複雑なる生活により多くの注意を払え!そしてたいして質のよくない紋切り型の材料、この官僚的観念的創造の果実をより少なく与えよ!」と述べ、プロレタリア詩人について「すべての詩人は生活を研究し自分を完成し大衆と結びついて、その生きた詩的表現となるかわりに、批評家、組織者、政治家になってしまった。だから彼等が生活の圧迫の下に『歌わん』とすると、たとえば、 彼等のリズムは、 他人の声をかりた歌になってしまうのだ!」と批判しています。
「プロレタリア・レアリズムへの道」において蔵原は、「プロレタリア作家は何よりも、まず明確なる階級的観点を獲得しなければならない」「プロレタリア前衛の『眼をもって』この世界を見、それを描かなければならない。プロレタリア作家はこの観点を獲得し、それを強調することによってのみ真のレアリストたりうる。何となれば現在において、この世界を真実に、その全体性において、その発展の中において見うるものは、戦闘的プロレタリアート プロレタリア前衛をおいてほかにないのだから」と述べました。
ブルジョア・レアリズムは抽象的な「人間の本性」から出発し、人間の個人的本能生活は描くことが出来たが、それを全体的な社会的生活の一部として描くことは出来なかった。「プロレタリア作家はこの自然科学的レアリズムを克服して個人的に対する社会的観点を獲得しなければならない。言いかえれば、我々は社会的問題をも『個人の本性』に帰せんとする認識の方法に対抗して、あらゆる個人的問題をも社会的観点から見てゆくという方法を強調しなければならない」と述べたのです。
しかし、蔵原はこの論文でも徹底してリアリアズムを強調し、「過去のレアリズムからその現実に対する客観的態度を継承する」ことを主張しました。ここで客観的態度と言うのは「現実を現実として、何等主観的構成なしに、主観的粉飾なしに描こうとする態度」のことで、「その態度こそは過去のわが国のプロレタリア文学の多くのものに欠けていたところであり、そしてその故に今我々が特に強調しなければならないところであるのだ」と言うのです。「我々にとって重要なのは、現実を我々の主観によって、ゆがめたり粉飾したりすることではなくして、我々の主観 プロレアリアートの階級的主観 に相応するものを現実の中に発見することにあるのだ かくしてのみ初めて我々は我々の文学をして真実にプロレアリアートの階級闘争に役立たせうる」と蔵原は述べました。
すなわち、蔵原は「第一に、プロレタリア前衛の『眼をもって世界を見ること、第二に、厳正なるレアリストの態度をもってそれを描くこと」を求め、これが「プロレタリア・レアリズムへの唯一の道」であると主張したのです。
これに関連して、「現代生活の客観的『叙事詩的』展開こそは、何ものによってもかえることの出来ない芸術の重要なる任務である」と主張し、「現代生活の記録」の必要を説いた「生活組織としての芸術と無産階級」(『 前衛』一九二八年四月)において、「生活の具体的記録を取るということは、決して単なる生活のコピーを取るということを意味しはしない」と強調しています。「芸術家は、この現実における偶然なるもの、無用なるものを除いて、そこに必然なるもの、必要なるものを見出すだけの眼をもたなければならない。芸術家はこの社会の中に真実なるもの、典型的なるものを発見するために、芸術家的叡知と芸術家的感覚とをもたなければならない」と述べ、「現実における『現実以上の現実』を描き出すことは芸術における真のレアリズムの道であるのだ」「プロレタリア・レアリズムの道もまたこれ以外にはあり得ないのだ」と主張したのです。
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『一九二八年三月十五日』の夫を警察に奪われた竜吉の妻お恵は、一番にぎやかな市の通りを歩いていて、道行く人が事件とはまったく関係のない呑気な様子をしているのを見て不思議な気がして、「今、この同じ××の市で、あんなに大きな事件が起き上がっている。然し、それと此処は何んという無関係であろう。それでいいのだろうか」と思います。もちろんこの事件は、当時の新聞その他には当局筋から流された歪曲された事実しか報道されませんでした。国会で三・一五弾圧の不法な取り調べについて質問された政府委員は、拷問などの苛酷な取り調べは一切なかったと答えています。真実が隠蔽されて、支配階級に都合のいい報道しか行われていないのです。
この作品について書いた文章で、多喜二は色々な意味で自分に深い印象で刻み込まれていた人達がすぐそばから次々に捕らえられるのを見せつけられた衝撃について書いています。「雪に埋もれた人口十五に満たない北の国の小さい街から、二百人近くの労働者、学生、組合員が警察にくくり込まれ」たのです。「しかも、警察の中でそれら同志に加えられている半植民地な拷問が、如何に残忍きわまるものであるか、その事細かな一つ一つを、私は煮えくりかえる憎悪をもって知ることが出来た。私はその時何かの顕示を受けたように、一つの義務を感じた。この事こそ書かなければならない。書いて彼奴等の前にたたきつけ、あらゆる大衆を憤激にかり立てなければならないと思った」と多喜二は書いています。
多喜二は明らかに、隠蔽されている現代の先端にある事実の記録として書いたのです。『蟹工船』も『不在地主』も『党生活者』も同様でした。『蟹工船』の労働者は「監獄だって、これより悪かったらお目にかからないで!」「こんなこと内地くにさ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」と言います。多喜二は現にある事実でありながら「なんぼ話したって本当に」されない話を、文学的リアリティをもってまざまざと描き出し、広範な読者に動かし難い印象を与え、「憤激にかり立て」ました。今でも三・一五事件と言えば多喜二の『一九二八年三月十五日』が思い出され、蟹工船といえば多喜二の『 蟹工船』 が思い浮かべられるのです。戦時下の苛酷な弾圧に抗して戦う「非合法」活動を思う時、誰の心にもまず浮かぶのは多喜二の『党生活者』です。それらは日本の解放運動の歴史をまざまざと生きた具体性において今日に伝え、人々の心に生きて、今日の自由と民主主義、平和と人間解放の戦いを力強く支え、励ましているのです。そこに私達はプロレタリア・リアリズムの確かな勝利を見ることが出来ると思います。
多喜二は「十三の南京玉」その他のエッセイや書簡に「頭からでなく胸から」ということを繰り返して強調しています。読者の頭脳に訴えるのでなくて、心臓に訴えようとしたのです。これらの作品の背後には作者の強い感情があり、アジテーションの欲求があります。しかし、作者の見解や感慨が露出することを極力避けて、作品自身に語らせようとしました。
「吹雪いた夜の感想」(一九二八年一月三日執筆)と題する一連のエッセイに「具体的に!」と題してトルストイの『復活』を論じ、「ロシアが、どんな客観的情勢から必然に革命が起らなければならず、それが又何故に成功せずにはおかなかったかーーこの事は勿論自分達が優れたロシアのコンミュニスト達の著作によって、はっきり知らされている。然しその具体的な事実を、実に具体的に、グサリグサリと、実に辛辣に、『大きな手』で一つかみにして投げ出されたように、自分は、初めて『復活』で知ったといっていいと思っている」「その点で、世界のどの偉大なる作家よりも、どの偉大なプロレタリア作家でさえも、及びがたい、と自分は思っている」と述べました。
また「トルストイの『ファウスト』」と題して、「単純に、人間主義の作家だから、『馬鹿々々しい説法』である無抵抗主義の作家だから、というレッテルを貼りつけ、それだけの理由で黙殺するのは、結局何事もそれから学びとり得られる所以ではない」「『復活』は今、ちがった新しい態度で読み返されなければならない、自分は心からそう思う」と述べています。
「コンミュニズムの芸術論」の項では、「コンミュニズムの態度をもってものを見、それを描くということは、(A)何も作品の鼻ッ先きに看板のように所謂目的意識的な言葉をブラ下げたり、(B)その主人公をいつでもコンミュニストにしなければならない、ということではないのである」と述べています。多喜二は「コンミュニズムの芸術」の領域は「コンミュニズムのA、B、Cで安価な自慰をやること」ではなく、「トルストイが『復活』において試みた、あの社会の『 えぐり出し』 」であり、「我々はそれをコンミュニストの態度でやる、その生々しい具体性においてこれを暴露することに広いコンミュニズムの芸術の未墾地が横わっている」と主張したのです。そして、「それは他の深い、尊敬すべき理論家、実際家にも与えられていない別なタアレント、芸術家の特殊性であると思う」と述べています。
多喜二の見解は蔵原のそれとあい呼応するものでした。多喜二が早くから志賀直哉に深く学んで、作者が語るのではなく、作品自身が語るリアリズムの実現を目指していたことはよく知られています。さらにストリンドベリに学び、トルストイに学び、ロシアの新しい作家たちに学び、思想的に、政治的に、激しく動揺し、孤立感に苦しみながら、新しいリアリズムのために刻苦していたのです。北海道の小樽では仲間も少なく、運動の分裂は大変な苦痛でした。人数が少ないために、前芸に属しながら、プロ芸のメンバーとも協力しなければやっていけませんでした。力強く統一を志向し、芸術の特殊性を説き、プロレタリア・レアリズムの道を明らかにしようとする蔵原の理論は、どれほど多喜二を鼓舞し、激励したか分かりません。
特に三・一五の大弾圧の後で、プロ芸と前芸が合同して、ナップが成立し、その機関誌『戦旗』創刊号に蔵原の「プロレタリア・レアリズムの道」が発表されたことの意味は大きかったのです。わざわざ上京して蔵原に会い、激しい時代に抗して生きるプロレタリア作家としての道を、新しい決意で歩き始めました。『一九二八年三月十五日』はこうして書き始められました。
蔵原は「芸術運動当面の緊急問題」(『戦旗』一九二八年8月)で、芸術の特殊性を無視し、芸術運動を社会変革の運動に還元して、過去の芸術遺産に対して清算主義的態度を取る旧プロ芸の鹿地亘の見解を徹底して批判しました。
「もしも彼が、我々が『大衆の意欲を知る』ことからただちにプロレタリア芸術の技術が自然発生的に生まれてくると真面目に考えているならば、彼は誤っている。プロレタリア芸術はプロレタリアートの必要によって決定される。しかしそれはそこから生まれてきはしない。我々はそれを生み出さなければならないのである」と言い、それを生み出すためには、まず第一に「過去の人類が蓄積した芸術的技術をプロレタリアの見地から批判的に受け入れなければならない」と蔵原は主張しました。「過去の遺産なくして、プロレタリア芸術はあり得ない」とまで言い切ったのです。
この論文では芸術大衆化論をめぐって、同じく旧プロ芸の中野重治の「最も芸術的なるものが最も大衆的であり、最も大衆的なるものが最も芸術的である」という見解に対して、資本主義社会のプロレタリア芸術の問題としては、現実を無視した理想論、観念論でしかないと批判しています。
『一九二八年三月十五日』執筆中の多喜二は、この蔵原の意見に賛成で、「非常に重大な、プロレタリア芸術運動の新たな発足点を示すものと思いました」と書き送っていますが、ナップ内部の対立状態について心配し、「あくまでも内部の、発展のための対立として、決して分裂などを引き起こさぬよう、努力して下さることを望んでいます」と記していることは、統一問題についての強い関心を示すものとして注目されます。文学運動の統一の問題と過去の文学遺産の問題、リアリズムの問題、文学大衆化の問題、内容と形式の問題は密接に結びついていると思います。そして、蔵原は運動の指導者として、理論家、評論家としてこの問題と取り組み、多喜二は作家として、作品を通してこの問題を推進したのでした。
『一九二八年三月十五日』が『戦旗』一九二八年十一月号、十二月号に発表されるとすぐ、蔵原は都新聞に「プロレタリア文芸の画期的作品」として評価しました。この作品の欠陥としては、その背景をなした大衆の運動をほとんど描いていないことを、構成上の些事ではなく、作者の現実に対する態度、作者のイデオロギーの問題であると批判しましたが、この重大な欠陥にもかかわらず、第一に、身辺の雑事ではなくて一つの時代を、しかも戦闘的プロレタリアートの眼をもって描いている、第二に、今までのプロレタリア作品を多少とも彩っていたロマンチックな、観念的色彩にかえるにリアルな戦闘的の描写をもってしたこを挙げて、「まことに画期的な作品」であると評価しました。
「最近のプロレタリア文学と新作家」(『改造』一九二九年一月)においても、「この事件を小さいエピソードとしてではなしに、一つの時代的なスケールの中に取り扱ったものは、この作がはじめてである」と述べ、「闘士たちの種々なるタイプとその生活」が描かれているが、それがこれまでしばしばあったように「概念的でなく、また英雄としてではなくして、その種々なる欠点と長所とをもった人間として描かれている」と評価しました。
この蔵原の批評は、多喜二に対する大きな励ましでした。次々に指摘された欠陥を克服し、「蟹工船」「不在地主」と書き進んで、日本を代表するプロレタリア作家に成長しました。これらの作品について論ずる余裕はありませんが、多喜二は蔵原理論の忠実な実践者であり、それによって大きな成果を挙げることが出来ました。そして、蔵原は多喜二によって自己の理論を具体化し、多喜二の作品を批評することで自己の理論を発展させることが出来たとも言えると思います。この時期の蔵原が、無名の新しい作家たちについて、その欠陥を指摘するだけでなく、長所を発見し、積極的に評価する努力をしたことは、プロレタリア文学の発展にとって極めて大事なことだったと思います。
(講座第四回 ´90・12・15) 前へ ホーム