ニュースで読み解く韓国社会
平成１６年（２００４）１２月２１日（火曜日） 第３３号
■トピック ： 間諜（スパイ）疑惑
民主化宣言（１９８７年６月）、南北合意書及び非核化共同宣言の発行（１９
９２年２月）、南北首脳会談（２０００年６月）といった一連の南北関係の緊
張緩和とフィードバックし合いながら、「間諜」という言葉が韓国民の口に上
がることも少なくなった。
かつては間諜という言葉から想像されたのは、漆黒の夜、ゴムボートを使って
上陸し、四六時中ラジオの短波に聞きいっている者といったものであった。と
ころが最近は間諜とは産業スパイのこと、ＩＴ大国韓国から先端技術を盗み出
す者というのが一般の認識だ。スーツを着て飛行機で入国し、飛行機で出て行
く。薄汚いジャンバーを着て、たばこの値段を知らない者が公安機関に通報さ
れた時代は、とうの昔の話になったかと思われた。
野党ハンナラ党が提起した与党議員の北朝鮮スパイ疑惑は、すでに死語になっ
たかに思われていた間諜という言葉を再びクローズアップすることになった。
９０年代から始まった南北和解ムードの中で、再び間諜が新たなキーワードと
して登場してきたのだ。
▼反国家団体加入
渦中の議員は与党ウリ党の新人議員、李哲禹（イ・チョルウ）議員だ。選挙区
は休戦ラインの最前線にある京畿道抱川市。１９６０年生まれで、大学時代は
親北が噂される全国大学生代表者協議会（全大協）の政策委員を勤めたという
から、典型的な３８６世代だ。市民運動を経て先の４・１５総選挙で初当選し
た。党内左派と目されているが、意外にも所属グループは中道保守派のアンゲ
モ（安定的改革のための議員の集まり）だ。官僚、学者出身議員がほとんどと
言ってよいアンゲモの中では異色の存在だ。
李哲禹議員の間諜疑惑を最初に提起したのは、右派系の週刊新聞”未来韓国
”だ。同紙の記事をソースに国会本会議で、ハンナラ党の朱栄英（チュ・ソ
ンヨン）、朴勝煥(パク・スンファン)、金起ヒョン（火扁に玄）の３人の議員
が真相究明を要求した。
李哲禹議員が９２年、反国家団体とされる”韓国民族民主戦線（以下、韓民戦
）”に加入し、国家保安法上の会合、便宜提供、利敵表現物運搬、国家機密収
集探知幇助罪などの嫌疑で逮捕され、一審で懲役５年、２、３審で懲役４年の
刑を受け服役したことは周知の事実だ。ところが今回ハンナラ党が提起してい
るのは、李哲禹議員が加入した韓民戦が朝鮮労働党中部地域党と同一組織であ
り、李哲禹議員はそれをはっきり知っていながら加入したのではないかという
嫌疑だ。未来韓国紙、ハンナラ党の主張通りなら、間諜が国会議員を務めてい
るという前代未聞の事態を意味する。
▼金日成の肖像画の前で誓いの言葉
今回スクープされた一審の判決文の要旨は次の通りだ。
”被告人（李哲禹議員）は９２年１月、ソウル市内の喫茶店で”反米青年会”
の仲間であった梁＊＊当時民族解放愛国戦線（以下、民愛戦）”江原道委員長
から韓民戦加入を勧誘された。
９２年４月１８日、被告人は梁＊＊と会い、中浪区にある地下室で加入式を行
なった。被告人は右手を挙げ、壁に掛けられた朝鮮労働党旗と金日成・金正日
の肖像画に向かって、宣誓を行なった。その宣誓には「私は首領様に限りなく
忠実な首領様の戦士だ」「偉大なる金日成首領様と親愛なる指導者金正日同志
を、統一の広場に高く仕えるその日を胸にしっかり描いて」「首領、祖国と民
衆の前で確認した我々の誓いを守っていく」等の内容が含まれていた。
宣誓の後、被告人は仮名”カン・ジェス”、党番号”テドウンサン８２０号”
を授けられた。また国家を混乱させることを目的として結成されたに民愛戦に
加入、その構成員となった。
被告人は９２年４月、梁＊＊の指示を受け李＊＊を民愛戦に加入させた。その
時も被告らは、朝鮮労働党旗と金日成・金正日の肖像画を壁に掛け、宣誓を行
なった。この時使用した朝鮮労働党旗と金日成・金正日の肖像画を京畿道抱川
市に隠匿した。
また被告人は活動過程において、お互いが話をする時間と日にちから特定の数
字を除いた時点を会合時間と決め、活動と関係する物に触るときは、指紋・唾
液・髪の毛等を残さず、デモ・集会への参加を禁止するなどの規則を決めた。”
この一審の判決内容は２、３審でも維持され、９３年１０月最高裁で確定した
。李哲禹議員は前歴がないことが酌量され、懲役５年から４年に減刑され服役
、９９年２月刑期を終えた。
▼ウリ党の反撃
憲法第９８条の間諜条項では「敵国のために間諜する者、敵国の間諜を幇助す
る者は死刑、無期懲役、懲役７年以上の刑に処す」と明記されている。ところ
が、憲法上北朝鮮は韓国の一部分であり、国家ではない。北朝鮮のスパイには
憲法第９８条が適用されないのだ。ソ連、中国を主敵した冷戦時代の遺物だ。
李哲禹議員に科せられた懲役４年というのは李哲禹議員が間諜であったのか否
かという判断をするには、実に微妙な形量と言える。
だがかつての韓国であれば、反国家団体に加入し、朝鮮労働党旗と金日成・金
正日の肖像画の前で宣誓書を読み上げるといった事実が捜査記録と判決文に明
記され、刑に服したと言う事実だけで、政治生命は終わっていたに違いない。
だが今や韓国は、アラブ諸国を除いて最も反米的な国であり、世界で最も親北
国家でもある。ましてや、「賃上げや環境改善を訴える者は間諜を疑え」と言
われた時代でもない。李哲禹議員の間諜疑惑を巡って与野党の理念論争が始ま
った。
ハンナラ党の問題提起の直後開かれたウリ党の議員総会は「韓民戦が朝鮮労働
党と同一組織であるとはまったく知らなかった。朝鮮労働党旗と金日成・金正
日の肖像画の前で宣誓書を読み上げた、というのは捏造。２０日間執拗な拷問
を受けて、検事の作文にそのまま署名してしまった」という李哲禹議員の涙な
がらの訴えによって鳴咽に包まれた。ここから進歩派優勢の社会的雰囲気を背
景に、ウリ党の逆襲が始まる。
まず、李哲禹議員の間諜疑惑を提起したハンナラ党の３議員と、”未来韓国 ”
紙の編集長、執筆記者を名誉毀損で告訴、これで朴勝煥議員が「 李哲禹議員
が今も間諜として暗躍しているという意味で問題提起したのではない」とトー
クダウンした。
次に反撃の矢はハンナラ党屈指の公安通、鄭亨根（チョン・ヒョングン）議員
に向けられた。鄭亨根議員は、情報機関の元国家安全企画部第一次長を経て政
界入りした自他が認める情報通だ。”金大中・盧武鉉狙撃手”という異名で知
られている。「暴露にも哲学がある」が口癖だ。”未来韓国 ”紙のスクープ
の直後から、背後には鄭亨根がいると目されてきたが、一連の疑惑騒ぎの中で
水を得た魚のごとく「民愛戦は武器を持っていた」「ウリ党には、李哲禹議員
以外にも間諜とおぼしき議員がいる」といった発言を繰り返した。ところが李
哲禹議員に韓民戦加入をオルグした梁＊＊こと梁ホングアンが「鄭亨根から拷
問を受けた」と告発するや、守勢に回った。「まったくでたらめ。事実ならバ
ッジを外す」とは言うものの、梁ホングアンを名誉毀損で告訴する動きは見せ
ていない。
ウリ党が国家安全企画部による過去の拷問に関する真相調査を提唱し、青瓦台
（大統領府）直属の過去史究明委員会が鄭亨根議員の拷問疑惑の調査に乗り出
そうという動きの中、朴槿惠ハンナラ党代表が突然、与野党が先鋭に対立する
国家保安法存廃の妥協案を発表する。与野党の攻守が突然、所を変えてしまっ
た様相だ。
▼理念よりも実利
ハンナラ党を守勢に回らせた要因は、何と言っても世論の動向だ。すべての世
論調査でハンナラ党の疑惑提起に批判的な結果が出た。特に現政権と敵対関係
にある朝鮮日報の調査でも、ハンナラ党の疑惑提起に否定的な回答が６割に迫
ったという結果が決定打になった。南北関係が緊張していた時代を知っている
５０代以上の世代でも否定派が５割を超えた。「理念論争はどうでもよい。飯
を食わせろ」という国民のサインだ。
若年層、特に２０代前半の著しい保守化傾向が言われるが、彼らにとって保守
主義とは生活保守主義のこと、理念としての保守ではありえない。国家や組織
よりも個人が優先、自由で豊かな生活さえ保障してくれるなら保守であろうと
進歩であろうと構わないといった考え方だ。９０年代の高度大衆消費社会が生
み出したミーイズムの申し子だ。
９７年ＩＭＦ経済危機に匹敵するといわれる大不況のなかで、生活保守主義は
若者だけに見られる現象ではなくなった。「国会議員が間諜であろうがなかろ
うが知ったことではない。自分の生活さえ守れればよい」というのがマジョリ
テイーの本音だ。
９０年代中盤以後の韓国社会を、左右あるいは保守・進歩対決の場と見るのは
いささかステレオタイプ化された見方だ。むしろ、高所得層＝穏健保守、中流
＝プラグマテイスト（実利主義者）、低所得層＝右翼的保守とする色分けで見
る方がわかりやすい。国民の圧倒的多数を占める中流は非政治の実利主義、状
況に応じて穏健保守にも進歩にもなる。彼らにとっての至上価値は政治理念よ
りも経済だ。間諜論争など経済の阻害要因にしかならないというのが本音だ。
ハンナラ党の党内状況も９０年代後半以降の社会状況を反映している。２２５
人の現職議員の内、全斗煥・盧泰愚の流れを汲む保守右派・旧民正党出身者は
今やわずか４人だ。金泳三が率いた保守野党・旧統一民主党グループも４人、
逆に民主化運動出身の議員は１２人だ。残りの議員は理念よりも実利優先の保
守穏健派が大部分だ。理念対立に奮闘する闘士などいるはずもない。
祖国近代化を始めた朴正熙大統領以来、韓国の統一路線は「経済で圧倒的な差
をつけ北を飲み込む」というものだった。だが豊かな社会が産み出したものは
脱政治と経済万能主義だ。経済力で北を飲み込むどころか、北に対しては精神
的武装解除しているのが実状だ。。李哲禹議員の間諜疑惑はそれをいみじくも
立証した形だ。