「それから」について
一
「それから」は「誰か慌たゞしく門前を馳けて行く時、代助の頭の中には、大きな狙（まないた）下駄が空からぶら下つてゐた」という言葉で始まる。代助の夢はこの足音で覚めるのだが、いかにも奇怪な夢である。それは代助の生活の無意味と不安をあらわすと思われる。そしてまた、枕元に落ちた八重椿は、代助に生の不安を鋭く感じさせるものであった。（1）それは三千代の不幸な運命を臆示すると考えることも出来ると思うが、代助の耳には、その落ちる音が「護謨毬を天井裏から投げた程にも」響いたと作者は書いている。昨夜、その音を聞いた代助は、「右の手を心臓の上に載せて」血の音を確かめながら眠りについた。そしていまも枕元の「赤ん坊の頸程もある大きな花の色しを見つめる代助は、急に思い出したように、胸の上に手を当てて、心臓の鼓動を検査し始める。
それは彼の「近来の癖」になっていた。この鼓動のもに、「温い紅の血潮の鍵く流れるのを想像」し、これが「命」だと考える。それは自己に始まって自己に終る命である。他者とかかわることなく、何物も生み出さない。刻々に消費されるばかりの命である。生の鼓動の刻々は、死に近づく刻々である。その命の刻々をたえず自分で確かめずにいられないほど、彼の命は不安であり、空虚である。
枕元の新聞には男が女を斬っている絵があり、学校騒動が大きな活字で出ている。しかし、それが何であろう。代助は社会と隔絶して、自分だけの生を生きている。代助は丁寧に歯を磨き、熱心に皮膚の手入れをする。彼は歯ならびがよく、皮膚が美しく、しなやかなのに「満足」している。「代助は其ふつくらした頼を、両手で両三度撫でながら鏡の前にわが顔を映してゐた」と作者は書いている。
「必要があれば、御白粉さへ付けかねぬ程に肉体に誇りを置く人」であった。「それ程彼は旧時代を乗り超えてゐる」と作者は書いている。
代助は作者によって、新聞連載第一回一の一）にこんなふうに紹介される。作者はいくらかアイロニカルな紹介の仕方をしている。十一でも「彼は人の羨む程光沢の好い皮膚と、労働者に見出し難い様に柔かい筋肉を有つた男であつた」とその建康を強調して、「彼はこれでこそ生き甲斐があると信じてゐたのだから、彼の健康は、彼に取って他人の場合以上に価値があつた」（傍点引用者）と述べている。この場合も傍点部分のようにいうことで、作者は代助に対して若干の疑問をさしはさんでいる。
肉体に誇りを置く代助は肉体に囚われ、たえず心臓に手を置いて命を確かめなけれはならない。「どうも先生見た様に身体を気にしちや、 −−−仕舞には本当の病気になりま
すよ」と門野にいわれ、「もう病気ですよ」（一）という。
「門野はへえゝと云つた限（ぎり）、代助の光沢の好い顔色や肉の豊かな肩のあたりを羽織の上から眺めてゐる」と作者は書いている。代助の病気は精神の病気、神経の病気なのであろう。それを代助はむしろ誇りにしている。頭がニ重に仕切られたように感じるのを、始めての時は驚いたが、「ニ遍目は寧ろ新奇な経験として喜んだ」（十一）という。代助は神経の異常を近代人の徽証と考え、それを理解出来ない門野を気の毒に思う。
「自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して支払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族になつた報（むくい）に受ける不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に為れた。否ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。門野にはそんなことは丸で分らない」と代助は考える。
代助は「今の自分」を誇り、「中々得意に振舞」っている。しかし、門野は代助に対するアイロニーの役割を果している。三の代助は嫂に「左様（そん）なもんでせうか」といって、何うも此処へ来ると、丸で門野と同じ様になつちまふから困る」というが、一の代助は、代助に対して代助の父がいうのとまったく同様のことを門野にいう、「外のものが、みんな稼いでゐるのに、君許り寝てゐるのは苦痛ぢやないですか」「だつて御母さんや兄さんから云つたら、一日も早く独立して貰ひたいでせうがね」 そして、「彼は必覚何の為に呼吸を敢てして存在するかを怪しむことさへある」というのだが、代助の言葉は代助自身に返って来る。
代助が門野についていうのと同じ言葉を、門野は代助についていう。「先生は一体何を為（す）る気なんだらうね」「何か為たら好ささうなもんだと思ふんだが」もちろん、代助と門野を同列に扱うことは出来ないだろう。「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは如何にも不体裁だな」という父に対して、作者は代助の考えを「代助は決して、のらくらしてゐるとは思はない。たゞ職業の為に汚（けが）されない内容の多い時間を有する上等人種と自分を考へてゐる丈である」と述べている。ここでも「代助は思はない」「考へてゐる丈」という書き方をして、それが代助の自己主張であり、作者の意見と必ずしも一致するものではないことを示している。
作者は、代助が自己の世俗に対する優越性を信じ、「上等人種」であると自ら誇り、特権的生活に安住して「のらくら」していることに対して、なにひとつ自己の見解を述べてはいない。もちろん、作者の直接の言葉というものは作品世界においては決して述べられるものではない。直接作者自身が登場して、自己の言葉を述べているように見えても、それは作中人物の作者であり、作者を装った仮構の人物である。そうだとすれば、これまで便宜的に作者とよんで来たのは、作者ではなくて話者とでもいうべきものであろう（2）。
「それから」の主人公は代助である。話者は代助に密着し、代助の言動を描写するだけでなく、代助の内部に立ちいって、その思考や感情をもさまざまに伝える。これによって「それから」という作品は展開されている。代助は現代社会を批判し、父や門野ばかりでなく、友人の平岡や寺尾をも批判し、軽蔑している。しかし代助の考えが絶対的であるはずはない。その批評ほ多くの正しいものを含んではいるが、やはり個人の見解であり、しばしは偏見であり、独断であることをまぬがれない。なにより重大なことは、代助は自分で自分の本当の姿を知らなかったのである。代助は作品の展開において、自分自身を明かにするのであり、話者もまたすべてを知っているのでなく、作品の展開とともに、新しく代助を発見して行くのである。
もちろん、「それから」の作者は漱石である。漱石は代助をはじめ、作中の諸人物をつくりあげた。しかし、作者はこの作品世界を完全に支配しているだろうか。「それから」については詳細な構成メモが残っている。これにもとづいて、執筆に先立って作者には精密な構想が出来あがっていたとする見解が一般的である。しかし、漱石は七月十六日の日記に「小説中々進まず。しかし是が本職と思ふと、いつ迄かゝつても構はない気がする。暑く。ても何でも自分は本職に力めてゐるのだから不愉快の事なし。『それから』は五月末日に起稿今六十三回目なり」と記している。また、七月ニ十六日付畔柳芥舟宛書簡には「あの代助なるものが姦通を致しさうにて弱り侯」と書いている。
作者もまた作品世界のすべてを完全に見通し、支配することは出来ない。作中人物は作者によって生み出されたのでありながら、作品の進行とともにそれ自身の成長を始め、作者もそれを勝手に動かすことは出来ない。作者はその自律性を尊重しながら作品を発展させなければならない。たとえ前もってどれほど精細な構成メモがあったとしても、作品を書き進める過程で、どうしてもそれは書き改められなけれはならないのである。そこに作者の苦労があるというべきであろう。ところが、この「それから」の構成メモといわれるものは、発表された作品とほとんど全く、ぴったりあっている。これは一体どう考えれはいいのだろうか。
ニ
高木文堆は話者と作者の関係について注目すべき見解を示し、「それから」の執筆過程を詳細に分析している。（3）構成メモについても原稿の進行に平行して一歩ずつ先を書込んだという見方をしているが、メモが先に出来て、作者はこのメモにもとづいて作品を書いたという点では、多くの論者と同じである。そしてノートが15までしかないから、十五の最後、新聞連載九七回で終る筈だったが、「小説自身の生命が作者の欄筆を許さなかった」ので、作者はここから、「逆に小説に引摺られて、海図の無い航海に出帆させられた」という。
しかし、こまかく検討すれば、このメモが執筆に先立って作られていたとは到底考えられない。このメモは1、2と3、そしてさらに4以降では性質を異にしている。
この番号は15にいたるまで、作品の章立てと完全に対応しているが、1、2はごく簡単に 「1、代助ノ家、門野と婆さん。写真。」「2、平岡の来訪。談話。」と記されている。3はすこし詳しく「3、代助ノ家族。親爺。」と記したあとに、「(a)親爺トノ会話 （b)嫂との対話 （c)嫁の候補者 （d)其因縁ばなし」と記きれている。この程度なら」執筆前の構想として考えることも出来なくはない。
しかし、４以降はさらに詳しくなるばかりでなく、新聞連載の各回ごとの要点が、そっくりそのまま記されている。たとえば４は「（1）アンドーレフ。激セザル人。死ヲ怖レル人（2)アラマンス、平岡ノ移転ニ就テ（3)平岡ノ細君来訪。平岡ノセカくシイ容子。独リノ旅宿ノ細君ヲ問ハントシテ果サズ。（4)来訪ノツヅキ。細君ノ容貌、限、指輪 血色ノわるい事。（5)金ヲ借リル件。」といった工合である。作品とぴったりあった各回ごとのここまでくわしいメモを、はたして執筆前につくれるだろうか。また、その必要があるだろうか。
10の（1）には「リリー、オフ、ゼ、※（ワに濁点）レー、神経過敏。日本現代の不安ニ襲ハレル。」とあるが、六月十五日の日記に「昨日森が呉れたりリー、オフ、ゼ、※（ワに濁点）レーを大丼に浸し紫檀の机の上に置く。其下に昼探す。異香あり。」と記している。
これほそのまま「それから」十の一（五一回）に使われている。六月九日の日記には1蟻の巣を亡ぼす」、六月十八日には「百合の花の香ひよし。瓶中にニ輪咲く」とあり、これらはいずれも十に関係があるが、十は新聞連載五一回から五六回にあたっている。
日記によれは、ニ〇回分までを六月九日、五〇回分までを七月七日に送り、七月十六日に六三、四回目を書いているのだから、このあたりは七月七日ごろから十日ごろにかけて書いたJ」とになる。作者は執筆中の身辺の出来事をどしどし作品に利用したのである。
たとえは十三で宰徳秋水のことが話題になるが、これは東京朝日六月七日、八日の杉村楚人冠の1事徳秋水を襲ふ」によっていると思われる。その他、執筆中の新聞記事が相当多数利用されているのは「それから」の特徴である。
前記学校騒動は商科大学設置をめぐる東京高商の騒動であり、重役と代議士が多数拘引された日糖事件とならんで四月から五月にかけて、すなわち作者が「それから」の構想をたてている時期に、連日大きなスペースをさいて報道され、世間をさわがせたのである。。これらが「それから」の樺想に大きな影響をあたえたことは明かである。
作者は時代の唯中におり、作者は自分の生活の進行の中で作品世界を展開して行った。そして時代そのものを作品世界にとりこんで行ったのである。「それから」はすぐれて現在的な小説である。作品の構成がその細部にいたるまで出来ていて、それから書いたなどということは考えられない。
五〇回分を送った七月七日には、五ニ回はすでに書かれていたのではないかと思われる。五ニ回に対応するメモの10の(1)は前記の通りであるが、それ以後は「2、蟻ヲ殺ス。……」「4、三千代来。銀杏返。′白百合。息ヲ喘マシテゐる。水。りリー、オフ、ゼ、※（ワに濁点）レーの鉢の水を呑む。」となり、以下14に至るまで、各回をあらわす番号の記し方が変っている。
このことは、新聞社に送稿するに際して、これまでの作品の展開を10の(1）までメモし、それ以降は別の時に書きこんだことを示すのではないだろうか。つまり、このメモは1、2、3はともかくとして、すくなくとも４以降14までは、作品を書いたあとにその後を書き続ける必要から記したのではないかと思われる。
15は14までと性質を異にする。発表された作品と内容がちがっており、番号の記し方も混乱している。そして5の項は空白となり、そこでこのメモは終っている。これは終結に向かう十五にさしかかり、構成をきちんとするために14までのメモをつくり、それ以後終結までの構想をまとめようとしたのだと考えられる。
高木文雄のいうように、原稿の進展と平行して一歩ずつ先を書き込んでいたのなら、やはり最後の17までなくてはおかしいのである。その反対に、先に進むためにそれまでの展開を明かにするメモならば、最後の部分は必要がない。
また高木文雄はメモのある部分は快調に書き進み、メモのない最後の部分は執筆速度がおちて、難行苦行したようにいっているが、日記によれば八月九日に一〇〇回にかかり、八月十四日に20回を書きあげているのだから、一日平均一・八回強になり、五月三十一日から八月八日まで、七〇日間に九九回を書いた一日平均一・四回強に比して、大分速いとさえいえるのである。
もちろん、「此主人公は最後に妙な運命に陥る。それからさき何うなるかは書いてない」という六月ニ十一日の予告が示すように、作者にかなりはっきりした作品の見通しがあったことは確かである。しかし、執筆以前に各回ごとの精細なメモがあったということは考えられず、書き進めるに従って、代助の像は作者にも明かになっていったのである。それが小説の「自然」であり、そのような自然こそ、この小説の主題だったと思う。
三
「断片」には前記のメモのほかに、「それから」の構想に関係のある多くのメモがある。（4）たとえば次のようなものは、「それから」を考える場合、看過することの出来ない
ものである。
○ Ａ century of coflagration
○?
○ Is freedom possible
大火の世紀を問題にし、真実と虚偽と神秘をとりあげて、自由は可能かと問い、愛と道徳を問題にしている．これに続いて、Litterature of Relief ― Litterature of surplus energyという語が記されている。救済の文学と余裕の文学とでもいったらいいだろうか。これについては、再度くわしい記述があり、また不義密通についても、再三の記述がある。
これらは作品の主題に深いかかわりを持つものであるが、ことに「洋傘産の看板。ポスト。爛草靂の暖簾、勉強堂の看板．小包郵便kuruma車。電柱。風船玉。あか暖簾、半襟」というメモは、作品の末尾にほとんどそっくり生かされている．
「忽ち赤い郵便簡が限に付いた．すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるく回転し始めた。……煙草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれからそれへと続いた。仕舞には世の中が真赤になつた。さうして代助の頭を中心としてくるりくと〓の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。」
この「それから」末尾のイメージは、Ａ century of coflagration（大火の世紀）のイメージとも結びつき、漱石の内部に鮮烈に生き続けたのであり、「それから」 という作品形成に決定的な役割を果たすものだったと思われる。むしろ、「高商生徒」とか、「椿」とか冒頭に出て来るイメージの方が断片メモでは後に記されているのである。
自然の愛と社会の道徳という主題は、漱石の内部にはやくからあった。たとえは蔵書のズーデルマン「レギーネ」の見返しに、
「道徳ノ自然ニ抵抗シガタキヲ結末ニ点綴ス。」
「自然ノ愛卜形式ニ束縛セラレタル愛ヲ対照ス。……余モ此頃コレニ似タル恋ノ比較ヲ写サソト思ヒツヽアリシニ此篇ヲ見テ先ヲ越サレタル如キ感アリ。やメ様カ。やツテ見様カ」
と記され、これに明治四十一年四月の日付があることが指摘されている。(5)
これは「それから」以後の漱石が一貫して追求した主題であり、この切実な主題とはじめて取り組んだ点に、漱石文学のみならず、日本近代文学史における「それから」の画期的意味がある。
しかし、「断片」メモでは、この問題だけを単独にとりあげるのでなく、「大火の世紀」であるニ十世紀に、「自由は可能か」と問うて、愛と道徳について考えている。そして、「救済の文学」を問題にした。
漱石は「救済の文学」を「余裕の文学」と対比している。余裕のある人にとって、人生は遊びであり、人生に快楽を求める。これに対して、救済を求める人は、ひどく真剣であり、人生のための戦いを求める。
後者も勿論前者を求める。しかし、両者の懸隔が大きい場合は憎悪が生じる。漱石はこんなことを記しているが、「それから」は「余裕の文学」ではなくて、「救済の文学」であったというべきであろう。
代助は「余裕の文学」の信奉者であり、快楽を追求する美的生活者としてあらわれる。しかし、真実の生への希求、人生に対する誠実な態度は代助の生涯を一貫していたのである。
「昔」の代助は「自己の道念を誇張して、得意になつて使ひ回してゐた」（六）と考えている。「鍍金(めつき)を金に通用させ様とする切ない工面」に追いまわされていたのである。代助は「彼れ自身に特有な思索と観察によつて、次第々々に鍍金を自分で剥がして釆た」のであった。それは自分の本当の姿を偽る偽善に対する否定であった。しかし、あらゆる既製の倫理道徳や理想を虚偽として否定し去る時、どこに自分の真実の生存を求めるか。
「生活の為の生活。善ナク美ナク真ナシ」と漱石は「断片」メモに書いた。
日本の知識人の大多数は生活の為に自己のすべてを消耗しつくしている。真実の生存はこのような生活を否定するものでなければならない。漱石が代助のように金に困らぬ人間を設定したのは、現代における真実の生存、人間的自由の可能性を探求するためであった。しかし、そこに見出されたのは、無意味で空虚な生であった。代助はアンニュイに苦しむ。
漱石の蔵書中ダヌンチオの「死の勝利」の見返しに、漱石は「主人公は何の為に生きたる人なりや」と書いている。（6）
「此人は遂に愛の為に生きたりと云ひ得ず。しかも花の為にも月の為にも、シヤンパンの為にも生きたるにあらず。憐れむべき人間。他人にも自己にも濁足を与ふる能はざるegoist」と書いた。（7）
「断片」メモに余裕の文学について書いた時、漱石はおそらく「死の勝利」を思いうかべていたと思われる。この作品は代助も問題にしており、「それから」が成立する重要な契機になっている。
真実の生存を求め、救済の文学のために苦闘する漱石は、メモにいうように、一面で余裕を求めながら、その懸隔が甚しいため、やはり憎悪を感じないではいられなかったろう。
自分の頭脳に自信を持ち、自分で自分を「特種人(オリジナル)」であり「上等人種」であると信じて、働かずに遊び暮らす特権的生活に安住し、平岡や寺尾を軽蔑していた代助は、あらゆる自信、あらゆる誇りを奪われて、空しく荒野を彷復しなけれはならない。
十一の作者は「目的があつて歩くものは賎民だと彼ほ平生から信じてゐたのであるけれども、此の場合に限つて、其賎民の方が偉い様な気がした」と書いている。また「代助が黙然として、自己は何の為に生れて来たかを考へるのは斯う云ふ時であつた」と書いている。
「死の勝利」の主人公に対して発した「何の為に」という問は、「それから」 ではさまざまな人物によって、さまざまに発せられる。それはこの作品の中心的な主題にかかわる問であるといっていいだろう。代助はすベての誇りと自信をうしなった時、はじめて自分自身に対してこの間を発した。自分自身と最正面から向きあったのである。
代助はこれまで「自己本来の活動を自己本来の目的」として生きているつもりであった。「彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである。さうして他を偽らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得てゐた。」と作者は書いている。
しかし今、代助は「自分の活力に充実してゐない」事に気がつく。「自己の生活カの不足」をはげしく感じる。「彼はたゞ一人荒野の中に立つた。茫然としてゐた。」と作者は書いている。そして、ここから代助は新しく出発するのである。
「断片」 メモに漱石は「distanceは彼我のdistinctionを打破ス」と書いている。
「故ニ局ニアル人ノ甲乙相争ノ状ヲ見テ笑ハザルヲ得ズ」と書いている。
また「生ノ内容ハexperienceナリ。個人ニ人ノexperienceヲ単調ニスルハ人ノ生ヲ奪フナリ。自カラexperienceノ範囲ヲ狭クスルハ自カラ命ヲ縮ムルナリ。」と書き、「愛ノexperienceナキ者ヲ想像セヨ。非常に短命ナル感アラン。」と書いている。
「sufferセルなきコトナキ馬鹿ヲ見ルトキハ此感ジヲ起ス。道義ノ念ナキ奴ヲ見ルトキハ此感ジヲ起ス。」というのである。
そして「人情ハ一刻ニシテ生ノ内容ヲ急にに豊富ナラシム。此一刻ヲ味ツテ死スル者ハ真ノ長寿ナリ。」と書いている。
また、人間の不安について様々にあげ、「此不安ノ念ヲ切実に感ジタル者ハ道ヲ求ム。」と書いている。
そして、Secretについて、「霊ノ活動スル時、われ我ヲ知ル能ハズ。之ヲSecretト云フ。此secretヲ描へテ人ニ示すコト「七十年ニ一度ノ機会アリトキ百年ニ一度ノ機会アリトモ云ヒ難シ。之ヲ描へ得ル人ハ万人ニ一人ナリ。」と書き、「文学者ノ書久タルモノノ アルモノ ノ価値アルハ之ガ為ナリ。」と記している。
あらゆる自信、あらゆる誇り、あらゆる自己満足が破壊され、自己の空虚を痛切に自覚する時、はじめて人間が見えて来る。自分自身、自分自身の本当の命、本当の要求が見えて来る。
むしろ逆に、自分自身の本当の要求が次第に見えはじめて釆た時に、これまでの自分を支えていたすべてのものが崩れ落ち、自己の空虚が痛切に自覚されて来るといった方がいいかも知れない。
八から十、十一あたりにかけて、作者はこのような代助の転換を描いている。その時、社会はこれまでとは異った様相で、はげしく迫って来る。そして、真実の生存のための苦しいたたかいがはじまる。はたして自由、真実の生存は現代において可能であるか。こうして「それから」の本当の主題は次第にその姿をあらわして来る。
「それから」において漱石は「断片」メモにいう「此secretヲ捕へテ人ニ示ス」仕事をしようとしたのであった。「十年ニ一度ノ櫻会アリトモ、百年ニ一度ノ擦会アリトキ云ヒ難」い仕事である。それは現代において可能であるか。
漱石が前記のように「小説中々進まず。しかし是が本職と思ふといつ迄か1つても構はない気がする。暑くても何でも自分は本職に力めてゐるのだから不愉快の事なし。」と日記に書いたのは、自分がこうした仕事をしているのだという自覚に立ち、自己のすべてを屠けて、現代に生きる人間の救済を求める本質的な仕事に精進する苦しみと喜びをあらわしている。
前記「断片」にいうようにsufferなしに、本当の「生命ノ感ジ」は得られない。「それから」の作者は、現代人の苦悩を追求し、真実の生存、人間の自由の可能性を探求した。それは同時に現代に生きる人間の新しい「道」の探求であった。
四
「三四郎」において漱石は、広田先生の内部に立ち入って、現代に生きる人間の苦悩を究明しょうとしなかった。広田先生は三四郎の目を通して、現代を超越する「偉大なる暗闇」として描かれた。広田先生は現代を見おろして、現代を批評している。そして、三四郎は人生の入り口で、人生にあこがれながら、期待と不安の入りまじった面持ちで彷徨している。
これに対して、代助は現代のまっただ中におかれている。当時の新聞記事が数多く作中に取り入れられていることは前記の通りである。
東京高商の学校騒動では、東京帝大法科に商科大学を設置するという文部省の方針に反対して、一時は千三百名の生徒が全員同盟退学をするという所までいった。
日糖事件は多数の重役、代議士が拘引される一大疑款事件に発展した。
この他神奈川県疑獄事件、陸海軍の腐敗問題など、汚職腐敗事件が相次いで世間を騒がせた。
作中にも出て来るが、東洋汽船は紛飾決算で重役が不当な利益を得た。日本鉄道は国有移管にあたって、買収金を株主に配分し、五十円株に千二百円が配当された。
政界と財界は完全に癒着し、勝手なことをして、ひたすら私利私欲を追求していた。一方、庶民の生活は窮迫し、警察官とスリや詐欺犯が結托するというような事件も新聞をにぎわせた。
国民は享楽的になり、道義の退敗が嘆かれた。前年明治四一年に戊申詔書が出て、綱紀粛正と道義の昇揚が強調された。（8）学校風紀取締訓令が出て、学校生徒が脂粉を施し、仮装して演劇興行に近いものを演ずるのを禁じたりした。
漱石はこのような時代のただ中に立って、このような時代に真実の生存を求める人間として代助をつくり出し、その運命を追求した。
代助はこのような時代の虚偽性を鋭く批判する。しかし、自分の力で時代を動かすことが出来るとは思わない。
三年前の作品「野分」では、漱石は独力で時代とたたかう白井道也を描いた。三年たった今、そのような作品を書くことは出来なかった。
代助にいわせれば、道也の生き方は「自己の道念を誇張して、得意に使ひ回してゐた」（前出）ということになるのであろう。「それから」の漱石は人間の無力を感じ、自己の内部の臆黒を見つめている。
平岡が銀行内の不正事件に関連し辞職したことについても、代助は、もう一歩進んであくまでその真相を明かにする権利はないと自覚していた。また、そんな好奇心をおこすには、「あまり都会化し過ぎてゐた」と作者は書いている。
「二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既にロ訂乱nil admirariの域に達して仕舞つた。彼の思想は、人間の曙黒面に出逢つて喫驚(びつくり)する程の山出(やまだし)ではなかつた。彼の神経は斯様に陳腐な秘密を嗅いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた」（二）という。
代助は父と兄の関係している会社についても、いつどんなことが起るかも分らないと思っていた。
やかましい吟味をされたら、両方とも拘引に価する資格が出来はしまいかとまで疑っていた。
しかし、実業家というのは、誰もがそんなことをして財産をつくっているのだと思っていた。
だから、日糖事件がおこつたときも、「別に驚きもしなかつた」のである。
また、「父と兄の会社に就ても、心配をする程正直ではなかつた」（八）と作者は書いている。
平岡の言葉によれば、代助は「世の中を有の俵で受け取る男」だった。「意志を発展させる事の出来ない男」（六）だった。
それは代助が人間に対する信仰をうしなっているためであった。
代助はあらゆる理想に虚偽を見出さないでいられなかった。
彼は人間を軽蔑していた。現代日本に絶望していた。それは同時に自分自身を信じない事だった。
自分自身を軽蔑し、自分自身に絶望することだった。
ただ、彼は自分自身を軽蔑し、自分自身に絶望することに自己の誠実を認めた。
そして社会を批評し、自己を批評し得る「脳力」に自信を持ち、誇りを持っていた。
そして、自己を偽る偽善を憎み、自己を自覚し得ない愚かさを軽蔑した。
父とは異った意味で、彼はただ誠実を求めたのである。
「昔の彼」は「人の為に泣く事の好きな男」であった。また、大変な肝癪もちで、十八、九の時分には親爺と組打したことが一、二度ある位であった。
しかし、「彼れ自身に特有な思索と観察のカによって、次第々々に鍍金を自分自身で剥がして釆た」（前出）結果は、人間的な感情をもおし殺してしまった。彼の頭脳の鋭さが「幻像イリュージョン打破の方面に向つて」多く費された結果ニル・アドミラリにおちいったのである。
それを代助は「現代人の踏むべき必然の運命」と考えた。代助は自分を現代人の先端に立つものと考えたのである。これ程代助は「進化」していた。しかし「進化の裏面は何時でも退化」であった。代助はこの「進化」によって、人間的な自然な感情を退化せしめたのである。
「自カラexperienceノ範囲ヲ狭クスルハ人ノ命ヲ奪フナリ。」と漱石は前記メモに記している。
代助は幻像打破を徹底し、自己を社会から隔絶して「自分だけ」で生きようとした結果、experienceの範囲を狭めた。そこに生ずる避け難い空虚の感は、彼がいかに論理の力に頼って自己を正当化しようとも、そうすればするほど、いっそう強まることをまぬがれなかった。
彼はもっばら読書に日を暮らし、それを自分の本領とさえ考えた。また、音楽を聞き、ピアノを弾き、芝居を見て、experienceeの範囲を拡大し、生命の充実感を得ようとするが、それらは生命の根源から発する欲求と結びついていないために、上べだけの擬似経験であり、気を紛らすことにはなっても、本質的に生命の充実した感じをあたえることが出来ない。
本質的には生命の空虚感はますます深まったのである。
ただ、代助はそれを自覚せず、虚偽の経験を高級な経験と錯覚して、それを誇っていたのである。
このような空虚感が切実に自覚されるのは三千代に再会して、三千代に対する愛がよびさまされてからである。
しかし、三千代に再会して、三千代に対する愛がよびさまされても、代助は容易にそれを自覚しない。
三千代に対する愛の深まりは、空虚感の深まりとして自覚され、三千代の処に行く他は、どこへも行く所がないという追いつめられた空虚と孤独の感情に駆りたてられて、はじめて代助は自分の愛を自覚する。
元来、平岡と三千代を結婚させた時も、代助は三千代に対する愛をそれほど深いものとは自覚していなかったのだと思われる。
当時の代助は理想に酔い、道念を誇って、自分の本当の心に気づくことは出来なかったのである。
このような自己の虚偽を自覚するにいたつたについては、三千代をうしなった空虚感が大きな役割をはたしている筈だが、その時にもこの空虚感が三千代をうしなったことに由来するとは自覚することが出来なかった。
したがって、これまでの生活の虚偽をきびしく否定し、メッキをはがす努力をするばかりで、「自己本来の要求」などという言葉ばかりは覚えても、ますます自己の頭脳を誇りながら、ますます自己喪失を深め、空虚な美的生活を続けることになった。
もし、代助が三千代に対する愛を自覚することが出来たなら、代助は決して自己の頭脳に自信を持ち、「特殊人」だの「上等人種」だのと自己を誇ることは出来ず、代助の苦悩はもっとちがったものとなつていただろう。
もしそうなら、代助は人間の人間に対する愛をさえ信じない立派な「現代人」になりおおせることは出来なかったであろう。
すなわち、代助はひとつの自己欺瞞から、もうひとつの自己偽備に移ったのであり、真実の自己はますます見うしなわれていったのである。
この自己喪失の上に立って、代助は「現代人」としての自己、「特殊人」「上等人種」としての自己を誇り、「現代人」としての「高級な」不安や苦悩を味わったのである。
漱石は頭脳＝知性を誇る「現代人」がいかに自分の本当の心に盲目であるか、そして自己の感情、自己の自然や生命を圧殺してかえりみないかを追求した。
そして、その不安と孤独を徹底して追求し、あらゆる「現代人」の誇りや自信をうしなうことによって、はじめて本当の自己に目ざめ、自己の自然、自己の生命に帰り、人間的再生の道を探りあてることが出来ることを示した。
十四にいたって、代助ははじめて「自然の昔」に帰る。
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と代助は胸の中でいった。
「斯う云ひ得た時、彼ほ年頃にない安慰を総身に覚えた」と作者は書いている。
「始から何故自然に抵抗したのか」と代助は思った。
「雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに」代助は「純一無雑な平和な生命」を見出した。
「其生命」の裏にも表にも、慾得はなかった。利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかった。雲のような自由と、水の如き自然とがあった。
「さうして凡てが幸プリスであつた。だから凡てが美しかつた。」と作者は書いている。
この「再現の昔」というのは、しばしは考えられるように四、五年昔のことではないだろう。
当時の代助は「自然に抵抗」していたのである。
これは生以前の生ともいうべき、生の根源にある自然への回帰を意味すると思う。
代助が三千代に愛を打ちあけたとき、二人の心と心は直接に通いあった。
二人は「五十年を眼のあたりに縮めた程の精神の緊張」を感じた。
「彼等は愛の刑と賓たまものを同時に亨けて、同時に双方を切実に味わつた」と作者は書いている。実に「断片」メモにいうSecretであった。
しかし、作者はそこで小説を終らせなかった。
Secretを味わったものは死なぬばならぬ。Secretを味わって、なお、この世に生きることが出来るのか。
しかし、代助は生きようとする。その時、社会は新しい様相を呈して、ふたりをやき殺そうとしてはげしく迫って来る。
「三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉く敵であつた。彼等は赫々かくかくたる炎火えんかの裡うちに、二人を包んで焼き殺そうとしてゐる。」（十七）と作者は書いた。
代助はこの戦いを戦い抜くことが出来るだろうか。「代助は無言の嘩三千代と抱き合つて、此焔の風に早く己れを焼き尽すのを、此上もない本望とした。」と作者は書いている。
代助は職業を探して来るといって出て行き、すべてが赤い、もえる巷を、「自分の頭が焼け尽きる迄」電車に乗って何処までも行こうとする。
代助の出発は絶望的である。「大火の世紀」である現代に自由は可能であるか。この問に作者は答えていない。
むしろ、その答えは悲観的でさえあるように見える。
しかもなお、人間が人間として生きようとする限り、それは問い続けられなけれはならない問である。それはその後の漱石の文学を貫いて追求された問であるはかりでなく、今日にいたるまで、まだ答えられることなく問い続けられている問である。
注
（１） 猪野謙二「『それから』の思想と方法」（『明治の作家』 岩波書店）参照。
（2）ミハイル・バフチン『小説の言葉』（新時代杜）参照。
（3） 『漱石文学の支柱』（審美杜）。
（4） 越智治堆「『それから』論」（『漱石私論』角川書店）参照。
（5） 重松泰雄「〈作品鑑賞〉『それから』（『夏目漱石必携』学
燈社）参照。
（6） 剣持武彦「『それから』とダヌンツイオ『死の勝利』」（『比較文学研究夏目漱石』朝日出版社）参照。
（7）平岡敏夫「『それから』論」（『漱石序説』塙書房）参照。
8） 拙稿「日本近代文学史とプロレタリア文学！漱石と啄木を手がかりに1」（『日本近代文学研究』新日本出版社）参照。
一冊の講座 夏目漱石 日本の近代文学 １
1982年2月20日発行